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第一部: 
コミュニティから生まれたサンバ
 

田中(以下T):ご紹介に預かりました田中です。今日はブラジル音楽の中でも、私の主宰するライスレコードから出ているサンバのレコードを中心に昔話を交えつつ、お話していこうと思ってます。まず、 87年にアルバムをプロデュースしてそれ以来仲良くさせてもらってきた、ギリェルミ・ジ・ブリートさんが4月26日に亡くなってしまったんですよ。

原田(以下H):日本にも何回か来てくれましたよね。

T: 2回来て、良い思い出をたくさん作ってくれました。その追悼の意味を込めて、オープニングは彼の最後のアルバムに収録されていた、 QUANDO EU ME CHAMAR SAUDADE を聞いていただくんですけど、これを訳すると「私がサウダージと呼ばれるとき」という意味なんですね。サウダージっていうのは思い出だから、要するに、私が死んじゃったときということなんです。今日おかけするにはピッタリの曲かもしれません。

 

1: Guilherme De Brito / Quando Eu Me Chamar Saudade

T: オープニングにかかっていた「お嫁サンバ」はね、サンバらしい賑やかな感じでしたけど、私がサンバを聞くようになって、もう 30 年近くなるのかなぁ、ブラジルのサンバって、意外と短調の曲の方が多いんですよね。

H: 結局、サンバっていうと日本でのイメージはパンデイロ叩いてスルド叩いてっていうかたちで。要するにカーニバルのサンバっていうイメージで日本の人は意識してると思うんですけど、田中さんが最初にサンバを聞き出して、この人に会いたいって思ってブラジル行ったのがこのカルトーラだったんですね。カルトーラの歌う今のギリェルミの曲なんて、ファドからの流れみたいなのを感じちゃうな。

T: ファドですか?

H: ある種、ヨーロッパ的なものを感じるじゃないですか。ナイーブでセンチメンタルで。要するに太鼓叩いてみんなでワーッていうイメージとは全然違ったものなんだけど。田中さんがカルトーラって人にどうしてそんなに惹かれたのかってのをちょっと、ギリェルミも含めて。

T:76年頃っていうのは、私は17歳だったんですけど、実はその年こそ、日本のワールド・ミュージックの元年じゃないか、なんて思っているんですよ。ファニア・オールスターズが来たりエルゼッチ・カルドーゾが来たり、ジミー・クリフは渋谷公会堂で1日2回公演とかあったんですね。いきなり世界のいろいろな国からきた歌手たちをナマで見れるようになった。 76年って言えば「ホテル・カリフォルニア」で、ロックがスピリットを失ったと歌われた年ですよね。で、パンク・ニューウエーブが始まって。そんな時代に、いきなり世界の音楽がいろいろ聞けるようになった。もちろん日本盤も出るようになったし、たしかその翌年くらいから、ブラジル盤入るようになったんですよ。忘れもしない中目黒の<ディスコ・マニア>っていうレコ店があってね。そこにカルトーラの1枚目( 74年)と2枚目(76年)が入ってきたの。それが、両方とも3500円! それでも2枚買っちゃったんですよ。

H: ディスコ・マニア!懐かしいですね。靴脱いで入って、麦茶出してもらって...、当時はでも、普通だったらボブ・マーレイに行ったりとか。

T: ボブ・マーレイももちろん持ってましたよ。コンサートも行った。

H: あるいは、ファニア・オールスターズとか。

T: そうそう<ラテンコーナー>というレコ店にも行ったね。お茶の水にあったんだけど、レコ店なのに、一見さんにはなかなかレコード売ってくれないの(笑)。店主さんのお話を2時間くらい、やっと1枚売ってもらった(笑)。いま思うと面白い時代だったよね、そんな店があったなんて。

H: とにかく世界中から、いろんな音楽が入ってきた時期ですね。

T: で、そのうちのひとつがカルトーラでね。これ聞いてね、すごく好きになったのはね、私はもともとロック聞いて、レコード買うようになった世代なんだけど、アメリカではロックがあって黒人音楽があって、それぞれに別のファンがいて、という感じだったのに、その中で聞いたカルトーラって、そういう白黒の次元じゃないんですよね。

H: 僕はもうちょっと後になると思うんですけどカルトーラ初めて聞いたときに、なぜ黒い肌の人がこんな・・・

T: 白い音楽やってるか。

H: 白いっていうか ... 。

T: うん、まあそういう風に思ったかもしれないね。あんまりサンバとイメージされる音楽じゃないみたいなものを最初に聞いたのかもしれないね。

H: 僕は特に黒人音楽が好きだったので、違和感ありましたよね。カルトーラを最初聴いたとき、全然ディープな感じがしないし、要するにリズムに頼ってないし。ネルソン・カヴァキーニョはOKだったんですけど。ま、黒人音楽っていうとやっぱり基本はダンス音楽ってイメージがあるじゃないですか。で、はっきりいってカルトーラなんか全然ダンス音楽ではないし、何でそこに惹かれたのかなあって、田中さんに、ちょっと聞いてみたいな、と。

T: それはぼくがダンス音楽好きじゃないからかもしれないけど(笑)。当時18歳くらいで何がわかったか、いまではよく覚えていないけど、とにかくカルトーラを好きになって、彼に会いにブラジルに行こうと思った。で、忘れもしない 80年10月、ジョン・レノンが殺されちゃったちょうどその頃に、カルトーラも死んじゃったわけですよね。たしかカルトーラが亡くなったのを知ったのは、航空券買った後だった。それはそれはガッカリしちゃっいました。

H: そこまでして、会おうっていうくらい何か惹かれるものがあったわけでしょ?

T: 当時はまだ子どもですからね、本当にわかっていたかは疑わしいけど(笑)、でも聞いたことのないタイプの音楽に聞こえたんですよね。私たちがロック聞いたってのは、根底に日本の歌謡曲なんてダサいと思っていたからだったんだろうけど、カルトーラっていうのは純粋な歌謡曲に聞こえたのかもしれないですね。まあ、とにかくまあ一回これかけましょう。またしんみりした曲でサンバっぽくなくて申し訳ないけど、一番有名な曲ですよね。 AS ROSAS NAO FALAM 、「沈黙のバラ」という曲です。

 

2: Cartola / As Rosas Nao Falam

H: 僕は田中さんと1歳違いなんですけど、僕らが高校を卒業してアルバイトしたりなんかしてね、やっと自分の稼いだお金で誰にはばかることなくレコードが買えるぞと意気込んだりしていた、ちょうどその頃、『ミュージック・マガジン』読んだら「ロックは死んだ!」って書いてあったんですよ。あれ、終わっちゃったの?って感じですよね。まあ、「ラスト・ワルツ(ザ・バンド)」が終わって、

T: 「ホテル・カリフォルニア」が終わって、

H: そのときにロックが死んだから、じゃあ死んだロックをもっと徹底的にみんなで解体しようみたいなパンクって音楽が出てきたわけじゃないですか。そこに行けるか行けないかって、結構分かれ目だったと思いますね。田中さんはパンクにはいかなかったんですよね。

T: そう、パンクについていけなかった……パンクのレコードは、いま自分のレコード棚を見るとそれなりに持っているんだけど、それより、それまで知らなかった音楽を知る方が楽しくてしょうがなかったんだろうね。

H: 僕もね、パンクにはいけなかったんですよ。やっぱり、カミソリとか痛そうだし。僕はよりいっそう黒人音楽にはまったんです、幅広く。サルサでもレゲエでも、R&Bでも、あるいはジョルジ・ベンでもいいんですけど、ダンス音楽ってのがすごく好きだったと思うんですよね。とても、わかりやすかったし。でも、その当時、カルトーラ聞いて、会いに行くぞ、ポルトガル語習うぞっていうのは、まあ、よくわからない。今の歳ならね、すごくわかるような気がしますけど。

T: 当時ボブ・マーレイも好きだけど、それよりもブラジル音楽、キューバ音楽やラテン音楽が好きだった。たぶん白人音楽や黒人音楽よりも、混血音楽が好きだったんだろうね。ブラジルに行きたかったのはね、いま思うとほんと子どもっぽい理由ですよ。遠いし。時差 12時間だし。飛行機で1日かかるし。とにかく、ぜんぜん知らない遠いところ行きたかったって気持ちもあったと思う。

H: じゃあ最初から田中さんの中では、サンバっていうのはパンデイロやスルド叩いてみんなで踊ってって、そういう音楽では無かったっていう。

T: 最初からそうじゃなかったね。カルトーラ聞いちゃったおかげで、そういう音楽じゃないのもあるってことを最初に知っちゃったもんで。でもね、さっき言った踊るサンバ、そういう賑やかなのが嫌いだったわけでもなくて。一生懸命ポルトガル語勉強して、最初 81年の1月から、4月くらいまで行ってたんだけど、このモナルコのアルバムね、CDとはジャケット違うんだけど、それがLPでちょうど発売されてすぐだったんですよ。で、なんとリオに着いたらその発売記念コンサートやっていた。国立芸術財団のホールでね。私は勇んで見に行きましたよ。で、はじまってみたら、お客さんが 20人で、ステージにいる人数と同じくらいなの(笑)。客席にはパウリーニョ・ダ・ヴィオーラもいたし、ミウーシャとクリスチーナ・ブアルキ姉妹もいたりして、そっちのが豪華だった(笑)。

H: 何で普通の人は来てないんですか?

T: だってヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラなんて、そんなに知られているわけないし、カーニヴァル前でいろんなコンサートがあるのに、そんなの見たってしょうがないと思ったんでしょ(笑)。

H: ミュージシャンがミュージシャンを見にくる。

T: パウリーニョたちはきっとお呼ばれされたから来たんだろうね。

H: 何で田中さんが行ったんですか?

T: 新聞に広告がこんな小さく<モナルコ&ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラ>って載っていたの。それは嬉しかったですよ。リオに着いたその日ですし。ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラと言っても、いまとはメンバーの人数が違いますからね。お爺さんたちがみんな生きてたから、ステージにはどーんといっぱいメンバーがいて、でもお客さんは前から3列くらいまでしかいない(笑)。でも、内容はすばらしかったですね。私が見たヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラのコンサートでこのときが一番良かった。実は私はこの人たちのアルバムを5年後にプロデュースすることになるわけど、もちろんそんなこと、当時は考えてもみなかった。そこでやった曲のひとつをかけましょう。 HOMENGEM A VELHA GUARDA DA PORTELA って曲です。

 

3: Monarco / Homengem A Velha Guarda Da Portela

H: やっと何かサンバらしくなってきましたね。結局、一般にサンバのイメージっていうのは、こういうリズムやひとつの生活を共有してるような、いわゆる共同体、コミュニティ・ミュージックっていうか、そういうムードがあるものを、一般にはサンバと ... 、

T: そうですね。このヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラっていうのは、ポルテーラってエスコーラ・ジ・サンバがあって、まさしくサンバの共同体ですよね。そういう伝統の守り手たちという意味です。このグループの名前はパウリーニョ・ダ・ヴィオーラが 1970年に付けたそうですね。まあ、まさしくサンバが共同体の音楽だった時代に若い時代をごした人たちが年取ってグループを組んで演奏しているということです。モナルコはその中で一番若かったんですね。当時まだ 50代くらいだったのかな。それでいまの曲はそういうポルテーラの伝統を称えた曲ですよね。パウロ・ダ・ポルテーラっていう創始者が、他にも誰々という人がいて、そんなみんなが一緒に作った伝統が、こんにちまでこのように受け継がれている、という歌です。私はモナルコのこの音楽を聞いたときに、共同体のサンバっていうのはそういうもんだと思いましたね。これほどリアルに感じさせてくれる音楽っていうのは、世界中でもそうはないんじゃないかとも。

 特にコーラス聞いてもらいたかったんですけど、こんな不揃いなコーラス、普通レコーディングプロデューサーなら、許しませんよね(笑)。でもそうじゃないんですよ。みんなで一斉に歌ったときの一体感のおかげで、音程が多少ハズれていても大丈夫なんですね。音はハズれても、心はつながっていると言えばいいのかな。そんな音楽を 1981年2月何日かに、たった20人しかお客さんいない劇場で見てしまったわけですよ。これはすごい優越感でした。だって、こんな幸せな瞬間を共有することができたのは、たった20人くらいなんだから(笑)

H: そこで田中さんは、まあ簡単に言っちゃえば、日本からサンバの本場に来たぞと。で、この人たちは伝統的な音楽を、伝統的なひとつひとつの繋がりの中で、あるいは共同体の中で、育んでる人たちだったから、ああいいなって思ったと。

T: すごい思いました。まあ当時若かったしね。ホンモノにたどり着いたという感じですか。興奮したし。自分の音楽の理想郷が見つかったとも思っちゃった。

H: まあ逆に田中さんはそう思ったからこそ、そういう人たちの住んでる町に行ったり、住んでるところに行って、その生活の中にお邪魔してきたわけでしょ。

T: お邪魔してきました。ただ、それはそれから4年後の話ですけどね。85年にはじめてお邪魔したときは、コンサートじゃないんですよ。仲間うちのサンバ・パーティですよね。ギャラも出ないのに、みんな集まってくれて。忙しかったモナルコ以外はみんな来てくれたですね。で、これがまたスゴかった。これコンサートなんてもんじゃないですよ。マイクもなしにただテーブルを囲んで演奏して歌うんだけど、それぞれが楽しみながらやっていて、5時間くらい終わんないんですよ。おじいさんたちだって 70 いくつの人もいてね。それでもビールが何ダース空いたかわかんない。このビール代は私が持ちました。

H: 田中さんの歓迎パーティだったの?

T: そうじゃなくて、彼らと昔から親交があったクリスチーナ・ブアルキさんたちがメンバーに声をかけてくれたの。ポルテーラの練習場で集まろうと。

H: あ、僕も行きましたよ、ポルテーラの練習場、ずっと後年の話ですけど。

T: そこにみんなが集まって、サンバ・パーティですよ。そうそう、あの日はテープを回したので、よく探せば家にその日の録音、あるんでしょうね。それはそれは楽しかったですよ。

H: 本物のサンバの共同体に触れた、と。

T: そう思いました(笑)で、そのときのことです。彼らのアルバムを作ろうと思ったのは。なにしろ音楽の理想郷ですからね。このまま失うわけにはゆかないと。そしてリーダーだったマナセーアさんにそのことを言ったんだけど、でも当時 26歳の外国から来た若造が、突然、あなたたちのアルバムを作りたいって言って、おおそうかってオッケーする人はいませんよね。最初は完全に断られました(笑)。で、断られたのは仕方ないけど、とりあえず仲良くなれたのは嬉しいから、それから毎日彼らのところに通って、そのうちそこに住み着いちゃったの。

H: それ何で、彼らのアルバムを作ろうと思ったんです?

T: 彼らのアルバムが当時レコード店になかったからですよ。彼らは1970年にパウリーニョ・ダ・ヴィオーラのプロデュースで初アルバムを作って以来、 85 年まで、ぜんぜんレコードを作る機会がなかったんです。

H: 聞きたいレコードがなかったんだ。

T: そう。もしもあったら、そんなことも思わなかったでしょうね。

H: 要するにその時はリオの音楽産業の中で、彼らはマイナーな存在っていうか、商売にならない存在だったんですね。

T: そうですね。だいたい当時はサンバのレコード自体、あんまりなかったんですよ。 70 年代は多かったんだけど、 80 年代になってブラジルはポップ・ロックの時代になって、もう少し経つと若い世代のパゴージ系のサンバとかが出てくるけど、本格的なものはほとんどなかった。

H: まあ、マルクス・ペレイラとかその辺も、当時、既にレーベルとして活動していなかったし、

T: カルトーラのアルバムを作ったマルクス・ペレイラは自殺しちゃったし、モナルコのアルバムを作ったエルドラードもその後停滞しちゃったし。そういうこともあってね、私がやるしかないという気になっちゃったんでしょうね。で、信用してもらえるまで2ヶ月くらい滞在したのかな。本当にずっと彼らの本拠地のオズヴァルド・クルースにいたんですよ。で、土曜日の夜かな、彼らの主催のサンバ・パーティでビール運びとかビール冷やすのとか手伝ったの。彼らのお金儲けを手伝ったわけですね。そうやって仲良くなって、2ヶ月経ってから、それでじゃあアルバム作ろうか、ということになったわけですね。私は 86年に3枚作ったんですけど。ネルソン・サルジェント、ウィルソン・モレイラ、そしてヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラですね。でも、一番思い出があるのはこのヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラでした。ここでそのアルバムから、いかにも共同体のサンバらしい曲かけましょうね。

 

4: Velha Guarda Da Portela / Meu Procedimento 〜 Mulher Ingrata 〜 Nega Danada (Que Mulher)

H: これ本当に素人っぽいけど、結局、一番最初の方に聞いたギリェルミとかカルトーラとかの、アーティスティックなね、そういう人たちの曲と比べたら、もう本当にそこら辺の近所の人たちが和気藹々とやってるように聞こえますよね。で、こういうサンバっていうのは、ずーっと昔からあったんですか?

T: いや、そういうわけではないですよ。私もこういうサンバ最初に聞いたときに、 200年も300 年も前からみんなこうやってやってるのかと思ったけど、彼らと付き合っていてわかったのは、こういうサンバって、そんなに歴史が古いものじゃないということ。というか、ここで歌っている彼らがはじめたスタイルなんですよね。

H: じゃあ時代的にいうといつぐらいですか。

T: 戦後ですね。1940年代、50年代。いわゆる<共同体のサンバ>なるものが確立されたのは、その時代ですね。サンバの古い音源っていうのは、後でかけますけど、サンバというのは 1930 年代にレコードやラジオの発達もあって大発展した音楽なんですね。だけど、それが戦後になるとアメリカなんかの文化が大きく入ってきて、衰退してしまうんです。で、そんなサンバが下火になった時代に、貧しい人たちのコミュニティの音楽が発展してゆくわけですよ。

H: リオのね。

T: そうそう、リオの北側の、いわゆるファヴェーラ ( 貧民外 ) を拠点とするエスコーラ・ジ・サンバにおいて。ここで確立されたのが<共同体のサンバ>なわけですね。サンバのレコードはあまり作られなくなったけど、そういう時代だからこそ、素人の作曲家の人たちは、そのコミュニティの人たちに向けて曲を書くようになったわけですね。もうお金のためじゃない。コミュニティにおけるプレスティッジが大事になったわけです。

H: 逆に言うとカルトーラみたいな、プロの人っていうのは?

T: カルトーラはその20年代後半にサンバをはじめた人で、30年代の黄金期サンバを体現しています。その時代にも自作曲が録音されたりしていますから。そういう意味で、40〜50年代の世代とはちょっと違いますね。

H: ある意味アーティスティックっていうか。

T: カルトーラが住んでいたマンゲイラの丘っていうのは、リオの市街地からすごく近いんですよ。彼のエスコーラの名前は<エスタソーン・プリメイラ・ジ・マンゲイラ>というんだけど、<エスタソーン・プリメイラ>というのは<最初の駅>という意味ですね。リオのセントラル駅っていう、まあ日本で言うと上野駅でしょうね、そこから一個目の駅が<マンゲイラ>だった。そういう意味で、マンゲイラはファヴェーラではあるけど、すごく洗練されたものを持っていると思います。それに対して、ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラのメンバーの拠点であるオズヴァルド・クルースというのは、各駅停車だと40分くらいかかるんです。すごく遠いんですよ。そんな土地に、エスコーラの創始者であるパウロ・ポルテーラは出向いて、サンバを教えたわけですね。

H: その人がポルテーラの創始者?

T: そうですね。パウロは意識してコミュニティのサンバを作ろうとしたと思います。そこがカルトーラとの違いですね。

H: カルトーラはコミュニティを抜けちゃいますもんね。

T: そうですね、カルトーラは40年代後半にマンゲイラを脱退します。カルトーラはやっぱりすごくアーティスティックな人だったんでしょうね。



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