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第一部: 
コミュニティから生まれたサンバ

H:ところで、一応、ポルテーラとかマンゲイラっていうのは何かっていうのを簡単に。

T:そうですね、エスコーラ・ジ・サンバの話をしないといけないね。エスコーラ・ジ・サンバっていうのはサンバ学校と直訳できるんだけど、要するにサンバって音楽がラジオやレコードで親しまれるようになろうという時代に、リオの貧しい人たちの地区でそういうところで生まれた団体だったんですね。マンゲイラもポルテーラもそういった団体でした。それがサンバ・コミュニティーの “ 芽 ” になっていったんだけど、ただ現実には、エスコーラなるものが誕生した1920年後半において、サンバの音楽家なんて、それほど沢山いたわけじゃないんですね。まだまだリオも小さい、人口も少ない。たぶん、本当にサンバコ・ミュニティを作ろうとした男は、パウロ・ポルテーラだけだったかもしれない。

H:つまりコミュニティの音楽として、サンバを定着させようとした。

T:パウロは完全に意識してやっていましたね。

H:要するに、もともとコミュニティー・ミュージックとしてのサンバが、存在していたわけではなかったんですよね。

T:もともとあるものではありません。ポピュラー音楽の<伝統>には、そんなジャンルでも必ず<発明者>がいるものですからね。

H:今、パウロっていう人はポルテーラの創始者じゃなく、作曲家として知られていますよね。

T:そうそう。ただカルトーラほどすばらしい曲をたくさん残せたわけではないですね。むしろリーダーだったんだと思います。例えば、パウロは子どもたちにサンバを教えることにも熱心だったようで、各家に子供たちを迎えに行って、練習の後はまた送り返したりしていたそうです。たぶんヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラのメンバーには、まだ子どもの頃にパウロに連れられて練習させられた人もいたかもしれないですね。

H:じゃあ何か自然発生的というよりかはかなり人為的な、

T:そうです。パウロは完全に自分たちのコミュニティを作ろうと思っていたようですね。それに比べたら、カルトーラは純粋に音楽家ですよ。

H:まあコミュニティから外れたところに行っちゃった。

T:きっとパウロは戦略的だったんですね。

H:それって、何のためっていうよりも、要するにそこにアイデンティティを求めたかって、ただそれだけのことですよね。

T:パウロはたぶんサンバにアイデンティティを求めたんでしょうね。40年代になってサンバが廃れたとき、ちょうどパウロが一番頑張ったんじゃないかな。ただ、そうして頑張った中で、実はパウロもエスコーラ内の内輪もめのせいで最終的には追い出されて、そのちょっと後に死んじゃうんですね。すごくリーダシップの強い人だったから、やっかみもあったんでしょうね。でも、ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラの人たちはパウロを尊敬している。それで、そういうコミュニティ音楽を作り上げた。それ以前のサンバで、誰が聞いてもコミューナルっていうんですか、そんな音楽があったわけではありません。

H:結局、さっきみたいなサンバを聞くと、昔っからこれは自然発生的にいつのまにか出来た音楽じゃないかって考えちゃうわけですよね。それが僕たちの音楽に対する幻想っていう部分があるわけでしょ。

T:私も最初はそう思いました。

H:で、そういうものに感動したわけでしょ、最初は。だけど、よくよく調べていくとそうじゃない、と。

T:現代の、たとえば20代30代でサンバをやってる、いわゆるエスコーラ系っていうんですか、そういう若い黒人のミュージシャンたちは、共同体サンバの伝統はすごい昔からあってね、自分たちはそのルーツとつながっていると思っている。この血がこういう音楽を作っている、って調子ですか。だけど、そうじゃないんですね。

H:そういうことを、どの辺でわかり始めるんですか田中さんは。誰に会ってどういうふうに。

T:いや、彼らと話してるうちに、だんだんそう思うようになりました。具体的に、誰がどういうことをやったと、彼らが覚えている範囲内の歴史ですから、すごいリアルなんですよね。で、パウロはこういうことやったとは、どう言ったとか。

H:簡単に言っちゃうと、パウロって人がいなかったらこういう演奏は無かったかもしれない。

T:うん、そうかもしれないですね。

H:誰かが作ったわけですね。

T:パウロが作った路線で彼らが熟成させたんでしょうね。私も最初は、とにかくコミューナルなサンバの存在に感動して、音楽の理想郷がそこにある、なんて思っていたわけだけど、でも、そういった伝統が、大昔からあるものを受け継いだのではなく、まだ数10年前に彼らによって作られた、ということに、今度は再び感動しましたね。

H:まあ要するに、アプリオリにあったものではなくて、作られたものとしての伝統を、形にしてきた、と。

T:ポピュラー音楽っていうのはあくまでクリエイトするものであって、黙っていて受け継がれるものなんて存在しないんですね。

H:この素人臭さっていうか、その和気藹々としたご近所さんがみんな集まってパーティーやっているみたいな雰囲気っていうのも、もとを辿れば、誰かがクリエイトしたものっていうことですよね。

T:そうそう。

H:個人の創意があって出来てきたってことですよね。

T:個人、あるいは複数の人もいたかもしれないけど、パウロが中心になったのは間違いないですね。私がプロデュースしたヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラの1枚目のアルバムでは、さっきおかけした曲のように、自然なサンバ・パーティっぽい曲が多くなっています。それは私がこういう共同体のサンバが存在することに感動していた時代だったからですね。で、その2年後、改めて彼らのアルバムをプロデュースしたときには、考え方が少し変わってきた。今度は創始者であり彼らの先生だったパウロの曲集を作ろうと思ったんですね。最初のときはとりあえず彼らの一番良い部分を出そうと思ってアルバム作ったけど、今度は彼らと一緒にクリエイトしたくなったわけですよ。リクリエイトしたというべきかな。で、パウロの曲をあちこちで探し出して。モナルコと一緒にオズヴァルド・クルース中を歩き回りましたね、パウロのことを覚えている人を探して、あれも本当に良い思い出ですね。そのアルバムから1曲かけますか。パウロがね、これポルテーラのその内紛で追い出されたときに作った曲です。これは私がブラジルの文献から見つけました。MEU NOME JA CAIU NO ESQUECIMENTO、「私の名前は忘れ去られている」という曲です。

 

(5) VELHA GUARDA DA PORTELA/
MEU NOME JA CAIU NO ESQUECIMENT

H:黒人音楽聞いてきた立場からしても、モナルコの声っていいですよね。

T:そうですね。

H:何か熟成されたものを感じる。アーティスティックな意味じゃなくてね。

T:モナルコっていうのはコミュニティ音楽を作り出した世代の音楽家たち、ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラのメンバーだけど、一番末っ子ですね。

H:一番受け継いだ人。

T:彼こそ、ポルテーラの伝統派ですよ。1960年代になるとポルテーラの音楽家たちも、だんだんそのコミュニティの中のプレステージだけでは満足できなくなって、プロの音楽家を目指す人が出てくるわけですね。お金も儲けたかったのでしょう。カンデイアあたりがそんな新世代の代表格です。で、モナルコはそのカンデイアとほとんど年齢が近いはずなのに、新世代組には行かず、先輩たちと一緒にいるほうを選んだんですね。だからモナルコは良い人間で、カンデイアが悪い奴だとかいう話じゃないですよ。そうじゃなくて、モナルコはそういう性格の人だったんですね。

H:行かなかったって言うのはあれですよね、ソロ・デビューしたり、そういうこと?

T:その時はしなかった。そういう彼の実直さ、誠意。いまだに同じでしょうね。そういう意味でポルテーラのサンバの一番良い部分を受け継いだのがモナルコだと思います。彼の場合、実際にパウロから教わったって言ったって、すごく小さな子供の頃の話ですからね。ほんのちょっとしか会ってないわけですよ。だけど、実際にパウロと親しくした人たちよりも、モナルコはパウロのことを一番熱心にあっちこっち一緒に歩き回って調べてくれた。彼の歌でね、ポルテーラのことを話し始めたら一晩かかっても終わんないぞ、っていう曲があるんです。本当にそういう人ですね。私を一日中連れまわして、ここでパウロはポルテーラをはじめたとか、こう話したとか、この家で死んだんだとか、もう大変ですよ。

H:愛してるんですか?

T:愛してるんでしょうね、ポルテーラのことを。そう。まあ、これも私にはとても良い思い出ですよ。こんな経験ね、そうはできないじゃないですか。だから、私が作った彼らの2枚のアルバムはいまでも良い内容だったと思いますよ。最近になってマリーザ・モンチがプロデュースしたアルバムなんかより、ずっと熱気あるしね(笑)。そんな感じで86年から91年までにサンバ10枚、ショーロ1枚と、計11枚のアルバムをブラジルで作りました。その中でも一番楽しく出来たのがパウロのアルバムを作っていた88年頃かなあ。この時代にはウィルソン・モレイラのOKOLOFEってアルバムも作っていますね。この頃はプロデュースという仕事がのがすごく楽しくなった時期ですね。

H:OKOLOFEかけてもいいですか。

T:じゃ。

 

(6) WILSON MOREIRA/OKOLOFE

H:この曲、いわゆる普通のサンバとは全然違うじゃないですか。だから、これってひょっとしたらすごい昔のルーツを辿ってるのかな、と。イメージとしてはアフリカ起源みたいなね、そういう曲だと思うんですけど。例えば、ジョンゴとか、要するにサンバのルーツと一般には言われているリズムとか、あるいはアンゴラの黒人がたまたまブラジルに沢山連れて来られたということで、センバとかね、そういうものを田中さんはウィルソン・モレイラが実に黒人ぽい歌い口をしているから、ルーツっぽく表現しようとしているのかな?と思ったりしたんですけど...。

T:ウィルソン・モレイラはすごく不思議な曲書く人なんですよ。これサンバじゃないですよね、どう考えたって。ウィルソンは全くの自然児で、もちろんサンバも沢山書いてるけど、突然こういうのも書いちゃうんですよ。でも彼がアンゴーラのセンバを勉強するわけないしね(笑)。で、この曲は、私はあんまり黒いとは思わなかった。むしろ白人系の音楽じゃないですか。まあ、ブラジル音楽の場合、どれがブラックルーツでどれがホワイトルーツなのか、よくわからないものが多いけど。

H:でもパーカッションが...。

T:パーカッションはね、やっぱり入れちゃうよね、こういう風に。

H:それは何?味付けとして?こういう音楽が伝統的にあって、それをモレイラがやったとか、田中さんがやらせたってことじゃあない?

T:そうじゃない。ウィルソン・モレイラがこういう曲を作っちゃって、黒人の彼が歌うとその味付けを黒っぽくしたくなっちゃうわけですよ。たしかこのときは、それをマルコス・スザーノに依頼したんじゃないかな。彼はそういう仕事が好きだったから。そうそう、まだ有名になる前の、髪の毛があった時代のスザーノですよ(笑)。この曲で大事なのは、スザーノの味付けではなくて、ギターはラファエル・ラベーロなんですね。彼とウィルソン・モレイラの歌だけで、音楽の骨格は完全に出来ているの。後は全部味付け。これは最近になって特に思っているんだけど、ブラジルの音楽というのは、だいたいギターと歌だけで完結しちゃう音楽が多いですね、サンバも含めて。

H:例えばその、いわゆるジョンゴのリズムがサンバの起源にあるんだとか、そういう起源論ていうのは?

T:ジョンゴって音楽に関しては、インペリオ・セラーノの本拠地であるセリーニャの丘っていうんですか、そこのところ行って、いわゆるホンモノのジョンゴ音楽家たちに会ったことがありますよ。そうしてナマで会ったりすると、それは確かにリアルな音楽に思えたけど。でも、これだって、本当に200年も300年も前からあるわけじゃないでしょう。だって、ジョンゴって言葉がブラジル音楽で最初に登場したのは、アリ・バローゾが作ったサンバ・ジョンゴですよ。彼はバイーアのエキゾティシズムを表現するための音楽としてジョンゴを使いました。30年代後半のことです。

H:アリ・バローゾっていう人はポップの人ですよね。

T:ポップの人ですよ。だって「ブラジルの水彩画」っていう曲を作った人ですから。あれ、誰が歌ったんだっけ、アメリカで。

H:まあザビア・クガートとか、シナトラとか、いろんな人が。

T:アメリカでいろんな人が歌って、ヒットした。そういうブラジルの中でもすごいポップな流れを作った大巨匠が最初にジョンゴって名前の音楽をやったんですね。

H:ジョンゴって民俗音楽じゃないんですか?

T:きっと民俗音楽のジョンゴはあるんでしょう。ただ、それがサンバのルーツではないでしょうね。

H: 例えば、キューバ音楽の中でも一番アフリカっぽいって言われている、民俗音楽的なパーカッションだけで演じるルンバね。でも、あれはハバナという都市で20世紀に作られた音楽で、アーバン・ミュージックじゃないですか。

T:それとジョンゴはほとんど同じ位置にあるんじゃないかと思う。

H:結局、アフリカからダイレクトに伝わったものがあるんじゃなくて、ストリートでね、みんな集まって太鼓叩いてるうちに、いつの間にかできちゃったって。それがイメージとしてアフリカっぽいからアフリカ起源だなっていうふうに考えてしまうけど、まあ違いますよね、リズムの感じとかね。そういうものとしてやっぱりジョンゴっていうものがあるわけですか。

T:そうそう。ただ、いまのシリアスなジョンゴは、宗教と関わりがある音楽のようだから、その部分はちょっと違うんだろうけどね。

H:わかりました。

T:でも、アリ・バローゾが作ったサンバ・ジョンゴのほうが、<ホンモノのジョンゴ>よりも古い可能性がありますね。だからぼくはよく、<ホンモノのジョンゴ>はアリ・バローゾだろうと言うのですが(笑)。

H:そうすると本物のサンバっていうのは?

T:それはトム・ジョビンでしょう(笑)。まあ、この話はずっと後の方でします。それよりも、ここで大事なのは、ウィルソン・モレイラの音楽がギター伴奏だけで完結しているということですね。パーカッションはあくまで味付けということで、ウィルソンの音楽がパーカッションから生まれているということではないということです。民俗音楽と直結しているわけでもない。民俗音楽ってのは、どうしたってポピュラー音楽に直結しないんですよ。

H:まあ、実はそうなんですよね。まあ、ある種いつも民俗音楽っていうのは、エキゾティシズムというか、味付けですよね。

T:そうそう、ブラジルでサンバのレコーディングするときに、実は最初からパーカッションが入っているわけではないんですよ。どうやって録るかっていうと、普通はカヴァキーニョとギター2台、それにパンデイロとスルドだけでベーシック・トラックを作ります。この時点ではほとんどショーロですね。そしてその後に、他のいろんなパーカッションは全部オーヴァー・ダブしていくわけです。あの、ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラの1枚目だけはね、私の思い入れで全員一緒にやりましたけど、普通はそういうことはしない。だから、ベーシックなスウィングを作り出しているのは、ギターとカヴァキーニョなんですよね。中でもギターのあのピッキングから生まれるスウィングこそ、サンバのもっとも重要な部分じゃないかと思います。

H:じゃあ、アフリカ音楽っていうのはあんまり関係ないのかも...。

T:いまも言ったように、それは最後につける味付けです。もっとも重要な部分ではありません。

H:近代以前のアフリカってものに対して僕たちはものすごく幻想があるから、

T:それはやっぱりアメリカの中でルーツみたいな映画がはやったからでしょう。

H:例えばブルース聞いてどこがアフリカっぽいかっていったら、どこもアフリカっぽくないですよね。

T:冷静に見ればそうだよね。

H:アフリカとブルースが繋がってるっていうそういう幻想があるわけでしょ。幻想っていうかイメージですよね。そういうイメージが実は世界中のポピュラー音楽を覆っていて、例えば、コラを弾き語るグリオっていうのは何千年も前からいるんだっていうイメージがあって、確かにグリオの伝統は古いものかも知れないけど、コラなんていう楽器は植民地時代以降に誰かが創った楽器でしょ。それをちょっとみんな勘違いしちゃうんですよね。ずーっと昔っから、原始の時代からああいう風にやって来たみたいな、そういう考え方をしちゃうから、サンバを聴いても、そこには太古のアフリカの黒人の血が入ってるみたいなね、そういう幻想がどうしても出て来る。だけど、よくよく冷静になって考えてみると、サンバっていうのはノエール・ローザであり、カルメン・ミランダであり、アリ・バローゾであるってことになるわけですよね。

T:そちらの方こそ<ホンモノのサンバ>ですね。<ホンモノのサンバ>のほうがずっとポップだというのが面白いじゃないですか(笑)。で、そんなサンバの原点を意識したというわけではないのですが、ヴェーリャ・グァルダ・ダ・マンゲイラっていうグループのアルバムを作ったことがあるので、その中の曲を1曲聴いてもらいます。マンゲイラというのは、最初に話が出たカルトーラが創設したエスコーラです。ここで聞いてもらうのは、カルトーラの共作者だったカルロス・カシャーサの歌。当時、私はこのカルロス・カシャーサさんととても仲良くさせていただいていて、当時80くらいだったのかな、その後90いくつで亡くなりましたよね。これはカルトーラとの共作曲で、SIENCIA E ARTE、「科学と芸術」ってすごいタイトルです。アーティスティックな彼らならではの作品ですね。

 

(7) VELHA GUARDA DA MANGUEIRA(CARLOS CACHACA)/SIENCIA E ARTE

H:いい曲ですね。

T:これ、40何年だったか忘れちゃったけど、サンバ・エンレードという、カーニヴァルの行進のための曲なんですね、こうやってカルロス・カシャーサがシンミリ歌うと、そうは思えないですが。だからというわけではないのでしょうけど、たしかこの曲はこの年のマンゲイラの行進のテーマには採用されなくて、それでカルロス・カシャーサとカルトーラは頭きて、マンゲイラと絶縁してしまったんですね。40年代後半は、コミュニティが巨大化した時代で、いろいろな変化があったんでしょうね。

H:人口がどんどん増えたってこと?

T:現在のようにマンゲイラの丘に家がビッシリへばりついているような状況になったのは、戦後になってからです。そうなると、悪い奴も出てくるわけですよ。闇賭博の元締めとかね、そういうのがコミュニティを仕切るようになって。

H:エスコーラをね。

T:そうそう。でも、それはポルテーラも同じで、あのモナルコたちが活躍した時代にエスコーラを育てたのは、実はそんな闇賭博の親分ですからね(笑)。でもカルトーラやカルロス・カシャーサがいたマンゲイラは、ポルテーラの親分よりも音楽がわからなかったんでしょう(笑)。

だから追い出されちゃったんですね。とにかく、その頃はもう音楽家主導じゃない。でもその頃からカーニヴァルがでかくなって。

H:結局、コミュニティ・ミュージックって言われてるものはやっぱり作られたものなんだなって。サルサなんていう音楽も、サルサを作ったのは誰かっていうと、ユダヤ人のラリー・ハーローであり、一攫千金狙ってドミニカから出てきたジョニー・パチェーコであり、スペイン語も喋れないウィリー・コロンであり、結局、そういう人たちがサルサっていうコミュニティ・ミュージックを支えた。あの音楽を否定するわけじゃなくてね、そういう時代があって、ある程度クリエイトされたものとしてサルサも、そしてサンバも存在する。

T:私はね、逆に親しみを感じたんですよ。クリエイトされたものだということで。まったく別世界にある音楽ではなくて、同じ人間が作った音楽だ、と。ブラジル人の血がサンバを作った、みたいな話って、論理的じゃないじゃないですか。

H:ただ、まあ、本物幻想っていうのはあるわけじゃないですか。

T:そうですね。日本人だけでなく、ブラジル人でもそれは持っていますよね。今の若い黒人サンビスタたちは、俺たちが本物のサンバを受け継いでいると、本当に思っているかもしれない。アフリカから受け継がれた俺たちの血がこんな音楽を作っているとかね。でも、いま聞いてもらったカルロス・カシャーサって、実は白人ですよ。ブラジルってとても面白い国でね、黒人のピシンギーニャがフルート吹いて、白人のジョアン・ダ・バイアーナがパンデイロ叩いていたんですよ。それがルーツだったんです。いまだに優れたパンデイロ奏者は、みんな白人じゃないですか。

H:パンデイロって楽器自体、たぶんアラブからヨーロッパに渡ってね。それでブラジルへ渡ったわけでしょ。決してアフリカ起源のものじゃない。

T:カルロス・カシャーサはすごくインテリジェンスのある人で、私によく言っていましたね。「私たちの時代は音楽をクリエイトした。でも、最近になってホンモノのサンバとか言われるようになったら、誰もクリエイトしなくなった」って。要するに、彼としては、彼はクリエイトしたからエスコーラを追い出されたと言いたいのでしょうね。コミュニティのサンバが、ホンモノのサンバになったら、ダメになったということです。

H:もともとあったサンバっていうのは、まあ、僕なんかまあ、本なんか読んで解してるのは、ルンドゥーとかね、あるいはヨーロッパから渡ってきたポルカとか、あるいは、マーチっていうかマルシャですよね。

T:ルンドゥーっていうのはブラジルのポピュラー音楽の起源ですよね。これはギターが作った音楽です。もともと民俗音楽としてのルンドゥーというのがあって、それをモジニェイロ(トロバドールに匹敵するギター弾き語り歌手)がデフォルメして作ったのが、ポピュラー音楽としてのルンドゥーだと言われていますが、そのギターが弾き出すビートっていうのは、いわゆるハバネラ系の、ハネる2拍子だったんですね。それがブラジルのポピュラー音楽としてのダンス音楽の基本ビートになります。そしてそこに、19世紀後半になってヨーロッパから渡ってきたポルカが加わると、サンバの前身になったマシーシみたいビートになる。そこからは味付けの時代ですね。だんだんと多彩な打楽器が使われるようになって、サンバになっていった。そんなアフリカ的な味付けを作ったのが、1930年代初頭に活躍したピシンギーニャのジャズ・オーケストラで、そんな楽団でいまのサンバのパーカッション・アンサンブルの原型を作ったのが、いま紹介した白人パンデイロ奏者ジョアン・ダ・バイアーナだったといわれています。ピシンギーニャは後で紹介するとして、そのようにサンバが発展して、サンバが俺たちの文化だといえるような時代になった頃の音源を聞いてもらいましょう。タイトルは「私たちのもの」という意味で、歌っているのはノエール・ローザというシンガーソングライターです。

 

 


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