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第2部
チカーノ・ミュージック
 

チカーノ・ミュージックとは?

宮田(以下M):チカーノ・ミュージックというのは、おおまかな言い方ですが、メキシコからアメリカ、おもにカリフォルニア州からテキサス州西南部に移民した人々の音楽を指します。 今日は特にその中心ともいえるロサンゼルスのチカーノ文化から生まれた音楽をご紹介したいとおもいます。

音楽的な特徴としては、まずアメリカとメキシコというふたつの文化がクラッシュして混ざったものだということ。それから、母体となるバリオを呼ばれるチカーノたちが実際に住んでいる場所、そこから生まれる文化を含むもの、それがチカーノ・ミュージックだと言っていいと思います。つまりメキシコ人は彼らにとって「ノルテ=北」のほうに移動して新しい文化を起こそうとしている。

それと同時に、カンペチーノ、つまり地方出身者からウルバーノ、都市の人間へという都市化の動きでもあります。そのすごいスピード感あふれる表現の中に、ときどきメキシコ的なものを振り返ってみたり、隣に住んでいる黒人から影響を受けたりと、いろんなものが混じってチカーノ・ミュージックは成り立っています。

関口(以下S):チカーノというのは、アメリカで生まれたメキシコ移民二世および三世以降ということでいいんですよね。

M:そうですね。

S:そのバリオという言葉は分かりやすく日本語にすると?

M:いわゆる「居住区」ですね。ただ必ずしも地域的なものではなくて、そこにある共通意識みたいなものを指すこともあります。

 

12: 「Los Chucos Suaves」ラロ・ゲレーロ&スス・チンコ・ロボス

S:今日聴かせていただく曲は年代順に大きく5つに分かれています。最初は1940年代ですね。

M:チカーノたちは、カリフォルニア州の人口の25%、ロスアンジェルスの約半分を占めると言われてますけども、チカーノといっても1845年にメキシコがアメリカに割譲される前から住んでいる人たちに始まってとても世代の幅が広いんですね。その中で、どんなにアメリカに同化してもメインストリームになりきれないチカーノの個性が一番明確になってくるのが40年代なんです。第一世代の子孫達が英語を話せるようになって、当時流行っていたジャンプ、R&Bなどを自分たちの文化とうまく融合させて、ひとつの音楽を創りました。そのパチューコ・ミュージックを1曲聴いていただきました。

この曲、リズムはブギーなんですけども、すこしルンバの感じが入っていたり、マンボ的な雰囲気があったりしてますね。特徴的なのは歌ってる言葉で、これは「カロー」って言われているスラングが混じった言葉でして、テキサス州とメキシコのボーダーであるエルパソからやってきたと言われています。英語とスペイン語が混じった言語が歌詞として採用されているんですね。

 

13: 「チカーノ・ブギー」 クアルテート・デ・ロマン・マルティネス

M:パチューコ・ミュージックをもう1曲、これは初めてチカーノという言葉が使われた音楽だと思います。お聞きの通りユニークな音楽ですが、当時チカーノという言葉はとても侮辱的な言葉だったはずなので、非常に自虐的なタイトルです。アメリカとメキシコの文化の狭間で、どっちにも属さないアウトローだった人たちのことを「パチューコ」と呼んだんですが、この曲はある種のメキシコ人的感覚から自嘲気味に歌ったナンバーのようです。

S:その「パチューコ」たちは現実に不法行為をしてたんですか?

M:そう言われていますが、よくわからないんですよね。こんなふうに(絵を見せる)ズート・スーツを着ていて、非常にクールな感じだったんだと思いますね。ズート・スーツは当時ジャズのミュージシャンたちの服装です。

S:いかにもヒップな格好ですね。

M:髪の毛は後ろに伸ばして、独特のスタイルのシューズを履いて、ロサンゼルスのダウンタウンを闊歩していたわけです。彼らのほとんどがエルパソ出身だと言われています。テキサスは黒人音楽がものすごくポピュラーなところなので、ロサンゼルスで流れていた黒人音楽を聴いて、親しみをもって自分たちの音楽に取り入れていったというわけです。

S:このファッションを見ても、すごくスタイリッシュな感覚が最初からありますよね。宮田さんが惹かれたのもそのヘンに関連があるような気がします。

M:そうですね。やんちゃというか、おしゃれな不良ですね。こういうヒップな感覚はやはりメキシコ人がウルバーノになろうとする感覚に近いと思うんですよね。このパチューコ・ミュージックはすべてのチカーノ・ミュージックのルーツになっていきまして、今でもチカーノたちの意識を探る上でパチューコたちは常に研究の対象になっています。僕も20年前にロスに住んでいた時にパチューコの残党みたいな人に何回か街中で遭遇したことがあるんですけども、さっきの歌詞のようにスペイン語と英語がごちゃ混ぜの言葉を話してました。

 

イーストサイド・サウンドとチカーノ・ムーヴメント

14: 「ダンス・オブ・サウザンド・ダンサーズ」 
      カンニバル&ザ・ヘッドハンターズ

M:1959年にリッチー・バレンスの「ラ・バンバ」が大ヒットしたわけですね。これが、当時からイーストLAに住んでいたメキシコ人の若者に非常に大きな影響を与えて、60年代にロックやR&Bにも刺激されたイーストサイド・サウンドという音楽が生まれます。これは65年の曲で、みなさん聴いたことがありますよね。オリジナルはクリス・ケナーだと思うんですけども、この「ナー・ナナナナー」というのはこの人たちのオリジナルです。歌詞を忘れちゃって適当にごまかしたところから始まったらしいですね。

この曲はたしか全米の18位まで上がって、なんとビートルズの全米ツアーにも前座で参加したんです。そのことがチカーノたちを非常に勇気づけました。当時のイーストLAでは若者たちの文化が本当に花開きまして、ロー・ライダー(極端に車高を下げた改造車)なども登場しましたが、毎週末のようにカー・クラブが主催するパーティーが開かれて、チカーノたちのバンドが出演していました。大学でもバンド合戦があったりとか、『アメリカン・グラフィティ』ならぬ『チカーノ・グラフィティ』のような世界があったわけです。

 

15: 「エクトール」 ザ・ヴィレッジ・コーラーズ

M:いま「エクトール!」って叫んだ人は、ラップみたいなことをやってますね。英語とスペイン語がごちゃ混ぜになった非常に豊かな言葉がリズミックに音楽に乗って、素晴らしい演奏です。このヴィレッジ・コーラーズというのは当時のカー・クラブの中でも一番人気のあったパーティー・バンドでした。本人たちからきいた面白い話があります。当時からチカーノたちのラジオ局はなかったんですけど、黒人のラジオ局が彼らの曲をプッシュしてローカル・ヒットしたんですね。それでライヴをやったらはじめはブーイングばかりだったそうです。ところがこの曲を演奏し始めたら急に大歓声が挙がった。つまりロサンゼルスの人たちは黒人の音楽だと思って聴いていたらしいんですね。

もともとカー・クラブというのは、ギャング問題の解決のために警察の指導のもとで作られた社交的なクラブだったんですが、その中にアウトロー的なものが生まれたり、大胆に車を改造するクラブが出てきたり、という形で広まったものです。いまや全世界のカー・カルチャーに影響を与えているロー・ライダーも、もとは白人の車文化への貧しいチカーノの反抗なんですね。

若者たちの文化が花開くと同時に、黒人の活動に影響を受けて、チカーノたちも公民権運動を起こしていきます。それがひとつの文化運動としても広がって、チカーノ・ムーヴメントと呼ばれる大きな政治社会運動になっていきます。イーストLAの高校生がストライキを始めたり、自警団を作ったりとか、それからエル・テアトロ・カンペシーノをはじめとする演劇が盛んになったりしました。パーティーに明け暮れていた若者たちも、こりゃいかんということで今度はそういうものに影響を受けて音楽をつくっていったわけです。

 

16: 「ブラウン・ベイビー」ウィリー・G

M:これはまさにチカーノ・ムーヴメントのもっとも高まっていたころに、チカーノの女性への賛歌として作られた曲です。非常にロマンチックな音楽なんですけども、チカーノたちはこういうメロウなものを好みます。最初は黒人音楽を聴いていたチカーノが、それに影響を受けてこういう音楽を創り出したわけです。

生活がハードで、街にはギャングがいて、両親は毎日過酷な条件で働いている、という荒れた日々のなかで、こういうメロウネスを求めるらしいんですね。チカーノたちはそれをオールディーズと総称して今でも本当に愛してるんですけども、そういうジャンルが一大マーケットとしてチカーノの中にはあります。今の曲にはコーラスはありませんが、メキシコのトリオ音楽、ロス・パンチョスの影響もあって同じようなコーラスを取り入れたものも見られます。

 


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